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福島県・南相馬へ1 ■きっかけは出会いとWhy

2011年08月03日 08:05

※すごく長いです。感情を吐露しているのでもしかしたら不快に感じることがあるかもしれません。ごめんなさい。
でも、真ん中と最後だけでも読んでいただければ嬉しいです。


自分で言うのもなんだけれど、私はけしてボランティア精神のある人間ではない。
震災当初すぐに「被災地のために今すぐ何かしなければ!」とは思っていなかったし
繰り返しTVで流れる悲惨な光景にただ呆然とするだけで、現実味さえなかった。

震災当日の3.11は、会社の机で仕事をしていて
その後もずっと、変わらず机で仕事をする毎日。
比較的すぐにしたことは、小額の募金と少しの支援物資発送くらい。

その後、続々と被災地にボランティアに向かう周りの人々を見て
私はなぜかイライラを募らせるようになった。
もっと言ってしまうと、ボランティアから帰ってきた人たちの
いくつものレポを見ては「こんなにもやっているという自己満アピール?」
「他人のためにそこまでできる理由は何なんだろう?」
と、ひどいことを考えたことさえある。
途中からは読みたくなくて、目をそむけてさえいた。
私にはそのイラだちが、なぜなのかわからなかった。

それでも私の気持ちを無視するようにどんどん流れ込む
津波、原発などの数々の被害報告。デマを含むたくさんの情報たち。

疲れ果てた私は震災に関して、思考と感情を停止することに努め始めた。


********************************************


おばちゃん家 チャリティーバラ


そんな中、転機は6月の100人100旅東北チャリティー写真展だった。
私はスタッフではなかったけど、その日は暇だったし
自分の写真も展示されているということで、会場のある下北沢へ足を運んでみた。

会場についた時は、たまたまトークイベントがスタートしたところだった。
特にタイムスケジュールをチェックしていたわけではないので
なんのお話なのかも、誰が話していたのかもよくわからなかったが
スタッフにすすめられるまま、私も席についた。

その時にトークをしていたのが、
先日の告知でも書いた安田菜津紀さんだったのだ。

彼女はフォトジャーナリストになったきっかけである
家族の死と、カンボジアの子供たちとの出会いについて話たあと、
義理の両親の住んでいた岩手県・陸前高田市の話をし始めた。
私はその頃、陸前高田の被害についてほとんど知らなかったけれど、
ここもかなりの津波の被害を受けた場所だということをその時に初めて知った。

日本百景の1つでもある高田松原が
1本の松を残して全て津波に飲みこまれてしまったこと。
津波で飲みこまれた学校と
目の前で親を失った多くの子供たちのこと。

その話を聞いている時、自分でも信じられないくらい涙が出てきた。
それまで一種の自己防衛本能のように停止しようとしていた思考と感情が、
決壊したダムのように流れ出るのがわかった。

被災地のために何もすることができなくても、思考や感情を停止しちゃダメだ。
この時、そう感じた。


(お話の一部を安田さんはブログにも書かれています
希望の松、陸前高田にて →陸前高田で出会った子供たち

トークショー案内 東北写真たち


安田さんはその時に、あるボランティアに関するお話もされていた。
それは「洗浄カメラマンプロジェクト」だった。
簡単に言うと、津波で流されたおうちのアルバムを回収後
きれいに洗浄し、展示して元の持ち主に返すというものだ。
(こちらの記事にも書かれています→”洗浄カメラマン”プロジェクト・イベントのお知らせ

この話を聞いて、「この作業をしに行きたい」という気持ちが芽生えた。
それは、今考えたらカメラ好きとしての「洗浄に対する興味」という
すこし不純な動機だったかもしれない。
それでも、冒頭のようなふてくされた私にしては、びっくりするような気持ちの変化だった。


********************************************


しかし、いつ行こうかと考えながらも1人では何もできない私がいた。
仕事が日曜・月曜休みでなかなか行く目途も立たず……。
(今考えたら、行く勇気が出ず色々自分に言いわけをしていたのかもしれない)
ただひたすら無力で、ニュースを見たら泣くだけの毎日だった。
今度は被災地に足を運べない自分にイライラして
やはりみんなのボランティア報告を素直に見ることはできなかった。

そしてとうとう安田さんのお話を聞いてから1ヶ月が経ったある日。
以前にこの記事でも書いた、イエメンで出会ったOさんからのボランティアのお誘いがあったのだ。
いただいたお誘いのメッセージを見ると、ボランティア先は福島県南相馬市だった。
正直言ってしまうと、一瞬、戸惑った。
原発のことがある。南相馬でなくても他にあるんじゃないか?と思った事は否めない。
しかし、さらにスクロールするとこう書いてあったのだ。

「ニーズは思い出の写真の洗浄と側溝の泥出しです」

この瞬間、何か不思議な縁のようなものを感じ
「これは何か私にとってすごく意味のある誘いな気がする」そう思った。
放射能に対する不安がなかったかと言えばそれは嘘になるが
そのよく知らない放射能のことを知るためにも、
それらに困らされている町の現状をこの目で見て知るためにも、
私は行くことを決めた。




■■■今後の記事について■■■

今後書いていく南相馬に関する記事を読んで、
もしかしたら冒頭の私のように「自己満?なぜ?」とイラ立ちを感じる人もいるかもしれない。
もしくは6月以降の私のように
ボランティアに行けないことに無力さを感じる人がいるかもしれない。

そういう人がもしいるならば、
「それだけではなかったよ!そんなことないよ!」と私は言いたい。
なぜなら、私もそれらのモヤモヤを解消したいのもあって
被災地に向かったからだ。


モヤモヤの理由を探しに行ってみよう。
自己満なのかどうなのか確かめに行ってみよう。
原発がよくわからないなら現状を見てみよう。
怖くて不安で仕方ないなら行ってみよう。

結局、根底の動機なんて全て自分本位の「Why?」だったのだ。
もちろん、被災地のために何かしたいという気持ちもあった。
でも、今よりは強くなかった。
これから書くことはあくまで私が感じたこと。私の目線。
私なりに導き出した「Why?」の答えだ。

だから、問題に対する関わり方はや考えは人それぞれあると思う。
けして私の考えが正しいとは限らない。それを前提に読んでもらいたい。
そして、その中から少しでも何か感じとってくれる人がいるなら
私はすごく、嬉しいなと思う。



チャリティーバラ2
最後まで読んでくれた人がいるかわかりませんが、読んでくださった方、ありがとう。
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8月8日の3月11日

2011年08月13日 02:58

Signの夜

前回の記事から、結構間があいてしまいました。
書こうと思っても、書くことは色んな意味で容易ではないなと思いました。
被災者ではない私が何を書いても軽い感じがするし
見たことを記録するということは、その事実や土地に対しての発言に
責任を持つということ。なんだかそれはとても怖いのです。
これは、荒れた被災地にカメラを向ける感覚と少し、似ている気がします。


そんな中、安田菜津紀さん含む6人の写真家の写真展
「Sign-写真家たちの311-」を見に行ってきました。
この写真展がまた、新たな衝撃と発見、そして
出会いをくれたように思います。


一番印象に残ったのは、渋谷敦志さんの写真と言葉です。
この方は、被災地にカメラを向けている間
ずっとその行為に対して迷いを感じていたそうです。
「これが何になるのか」と。
(それと近いことを、この記事にも書かれていました→渋谷敦志さんのブログへ


たしかに、私も最近まで報道写真に対して
「できる限り悲惨な写真を撮ることが目的?」とか
「カメラを向けることに心は痛まないの?」と疑問に感じていました。
(この辺のことは、また後日書きたいです)
だから、この事を知った時、なんだかホッとしたのと同時に涙が出ました。
迷いながら撮り続ける。それはきっと、とてもとてもツライ行為だと思うから。


でも、渋谷さんは迷いながらも、シャッターを切り続けたそうです。
苦しみながらも、向き合うことを続けたのだと思います。
そして撮った写真たちは、今、私の心の中に強く刻まれています。


今日、南相馬で出会った友人が迷いを口にした私に言いました。
「役に立ちたいという気持ちが役に立たないわけないよ」と。


これは私の勝手な印象ですが、渋谷さんの写真には、
迷いという名の優しさと、向き合うという名の愛が詰まっているような気がします。
それは、きっと写真を撮られる側にも見る側に伝わっていると私は思います。
その証拠に、渋谷さんが撮影された被災地の方々の表情は
どんな悲惨な一面の瓦礫写真よりも、何よりも
今回の震災を忘れてはいけない、日本を大事にしたい。
そういう気持ちにさせるような表情だったからです。


被災地の報道写真を見てはじめて、悲しい涙だけじゃない
不思議な涙が流れました。受け取ったのは、
絶望の次にくる希望と、あたたかい何か。
報道写真の、また別の顔を見た気がします。
(ちなみに、HPにある外国の写真も不思議なキラメキに包まれた写真ばかりです)
きっと、同じ1つの事実を伝えるのにも、カメラマンの人数だけ
想いや表現があるのだと思います。
今回、それを知れて本当によかった。


6人の写真家さんたちのように
誰かに影響を与えることはできないかもしれないけれど
思考し続けるために、逃げないためにも
自問自答しながらも感じていることすべて
少しずつ記したいと改めて思いました。



●撮影場所・新宿東口駅前 写真展の帰り道 色々な思いが渦巻く中撮った1枚
おかしい・・・今日は被災地入りした日のことを書こうと思ったのに
思いに任せて書いたら止まらなくて結局今回も書けなかった・・・。
ここまで葛藤しかしてない。若干気持ち悪い。次こそ書きます。なんかぐわわわー。

福島県・南相馬へ2 ■到着後、たった数十分のできごと

2011年08月16日 02:42

震災から4カ月も経過していた7月15日、
私はようやく東北(南相馬)に向けて家を出た。
特別用意したものは、事前にネットで検索した以下のものだ。
(検索したらすぐに情報がたくさんヒットした。情報を流していた方々に感謝)

■汚れても良い服(長袖)■防塵マスク
■ゴム手袋(食器洗い用と作業用)■作業用長靴
■夏用寝袋

※他にもゴーグルがあると望ましいそうだ。

***************************************

三重県から車で来たOさん達に用賀で拾われた後、
5時間半かけ、ついたのは南相馬市、原町にあるボランティアセンター
(以下、VC)だった。

まずはここでボランティア保険に入る。
この加入代金は、VCが支払ってくれるので
私たちは負担する必要はなくまずそれに驚いた。
※追記:現地で加入すると、負担はその地元自治体になるそうです。負担をかけないためにも
本来は住んでいる地域で加入が望ましいそうです。

そしてボランティア登録のための簡単な書類を書いたあと
係員に誘導され、オリエンテーションを受けた。
(場所が足りないのか、外で。青空教室のようだった)

オリエンテーションでは、VCの方が事前にボードに
張り付けられた資料と、配布された資料を使って、
現地での注意事項やお願いごとを説明してくださった。
それを聞くだけでも、被災地が津波や原発などだけでなく
どれだけの細かな問題を抱えているかを知ることができた。
(特にあげるとすると、被災者の自立に関する問題だ。
もう1つあるが、これは次回の記事に書こうと思う)


***************************************

その後、別室に移動しマッチング作業に入る。
その日のニーズが張り出され、ボランティアが割り当てられる。
(作業を選べないVCもある中、ここは空きがあれば自由に選べる)
その後、ニーズごとに参加者の名前が呼ばれ、
グループが形成され、リーダを決め、注意事項を説明され
車を出す人を決める……などといった具合だ。
※各VCによって流れは異なると思います

ここまでの流れのスムーズさに驚いた。
きっと、毎日ここであらゆるボランティアの人を対応している間に
少しずつムダをはぶき、必要な事を足していく作業を繰り返し行う事で
完成していったシステムなのだろう。
冒頭にあげた「必要な道具」にしてもそうだ。
震災直後は、わからないことだらけだったはずだ。
でも、今はそうではない。ボランティアにとって
とても活動しやすい環境だ。
被災地としての、「震災からの月日の流れ」を感じた。

***************************************


さらに、驚いたことはもう1つあった。
各自用意していった道具たち、
それら全てが既に用意されていたのだ。

これには何度も他のVCに入っているOさんも驚いていた。

防塵マスクにゴム手袋、キャップに
ヘルメットにゴーグル、安全長靴、日焼け止め。(この4つは貸出物)
それだけではない。毎日ペットボトルの水や塩飴なども配られるのだ。
※何人かに質問があったので調べたところ、防塵マスクは市の予算で用意しているらしいです。
その他のものははっきりしてませんが、支援物資や差し入れのものもあるようです。

(それらは1列に廊下に並んでいて、1個ずつ順に取って行く形になっている)

また、個人のボランティアの受け入れを断っているVCも多い中、
南相馬のVCは個人の受け入れも行っている。
毎日バラバラでやってくる、たくさんのボランティア初心者を
どの作業をしたいかまで、ちゃんと聞いて対応している。
それを想像するだけでも、現地の苦労の多さに青ざめる。

実は、南相馬は報道の多さと首都圏からの近さのわりには
他のVCと比べると人が集まっていない印象がある。
(調べてみたら、石巻の10分の1程度だった時もあった。)
その大きな理由はおそらく原発だろう。
少ない予算の中でもそれらの対応を継続するのは、ボランティアへの支援を整え
また来てもらおうという熱意のあらわれなのかもしれない。

VCに到着して数十分、この時早くも私は
「してあげる立場」ではなく「してもらっている立場」である感覚を覚えた。
ただ、この感覚は南相馬に滞在すればするほど強まっていった。
今後はその事も、きちんと記していきたい。


■南相馬市生活復興ボランティアセンターホームページはこちら ←写真つき詳しい流れあります
■南相馬市生活復興ボランティアセンターへのブログはこちら ←毎日の活動人数・報告あります

ボラキャップ
ボランティア全員に配られるキャップ。ボランティアに来た時期によって色が微妙に違うらしい。
(理由は謎)私のは「が」の文字が若干プリントに失敗していて、それが逆にまぎれても目印になって良い。
みんな使っているうちに愛着がわいていくようだ。


※オレンジ色の部分、8月16日の22時に追記しました☆

福島県・南相馬へ3 ■これからの支援のカタチ

2011年08月22日 03:26

本当はCVのオリエンテーションで聞いた、「写真撮影」について書こうと思ったのだけれど
今日はこの記事↓を受けて、今後の支援の仕方に関しても考えを記そうと思う。

【ボランティアが被災者の自立を阻害する?!~震災5ヵ月後のボランティアのあり方を問う】
http://kasakoblog.exblog.jp/15291070/

前回の記事を書いた後、何人かの友人やブログを見てくださってる方に
ある同じ質問をされた。それは

「ボランティアへの物資などは何のお金から出てるんですか?」

というのものだ。
正直、ギクリとした。そんなことまったく知らないし、
その上、実は私も同じことを考えたことがあったから。
つまり、疑問に思いながらも流していたわけで……。

私はいたれりつくせりなCVに感動しながらも、心の中で思っていたことがある。
「もっと他にお金を回さなければならない所があるんじゃないかな?」
ってこと。でも、それは考えてはならない事のような気がして
私はすぐに頭からその考えを追いやった。

が、結局友人たちに改めて突きつけられたわけだ。(感謝!)

というわけでネットでわかる限り色々調べてみた。
その結果、補足したのが前回の記事のオレンジ色の部分。
簡単に言うと、お金は自治体の予算から出ているものだった。
私たちは南相馬市の貴重なお金を使っていただいていたのだ。
考えなくてもわかることかもしれないけれど、私はそのことについて意識してなかった。
与えられるもの、どんなものだって当たり前じゃないのにね。

予算をそれらにあてることは、市が決めたこと。
市がボランティアにお金をかけることを「復興の近道」と考えた結果だろう。
だから、それを否定するわけではないけれど、
今後はちゃんと貴重なお金を使ってもらっているということ、
意識しなければならないと思った。そして、もっと本当に役に立ちたい。




そんなことを考えていた矢先、冒頭のリンクの記事を読んだのだ。
「ボランティアが被災者の仕事を奪っているかもしれない」という意見。
必ずしもそうだとは私は思わない。でも自立支援は意識しなければならないし
以前から、どこかで私もひっかかっていたことのような気もする。
(あとから噴出する問題は、大抵それより以前に少しひっかかりを感じているものなんだな)

まるでその伏線だったかのような出来ごと1つ目は
CVでのオリエンテーション。スタッフの方は被災者の方の
「自立支援をしてください」と言っていた。
「長い間避難所にいて、自立した生活が難しい人もいる」
「○○をしてくれと言われても、無理なら断ることも支援」
と。今考えれば、その意味をちゃんと考えていなかったな。

2つ目は街で駐車場が満車のパチンコ店。
どこのお店の駐車場もガラガラなのに、パチンコ店だけは大繁盛だった。
もうずっと南相馬にいる人が言っていた。
「国からお金が入るから、自ら仕事をやめ、パチンコする人もいるんだ」
衝撃的だった。しかも上記のブログの内容とはむしろ逆だ。
(もちろん、そんな人は一部だし、これを読んだことで市の印象を悪くしないで欲しい。
そんな人たちを非難したりできない。それだけの状況と進んでない自立支援があるんだろう)

こんな風に、TVにも出ない、上記のブログの問題だけではない
地域によって異なった様々な問題があるのだろう。
ボランティアが仕事を奪っている事実も存在していれば
ボランティアを必要としている事実もある。(これはまた別の記事に書きたい)
解決策も、その分1つじゃない。きっと、すべてに適応できる正解なんてない。
だからこそ、事態は深刻で複雑なんだと思う。
これから、色んな事実を受け止めながら、自分自身で取るべき行動を見極めなければならない。
(だから、上記のブログだけを受け止めて、ボランティアに行こうと思ってた人がこぞって
「行くのやめよう」となるのは怖いことなんじゃないかな)

でも1つ、今回の2つの件を受けて、確実に思ったことがある。
9月11日で震災から半年。きっと日本は新たなターニングポイントにきているんだと思う。
直接的な物資の支援などから、自立支援や孤独感を持つ人に対する心のケアへ。
これからの支援の仕方、これからの被災者の歩みかたを真剣に考えなければならない。
正直怖い。これ書いている間だって、これが何になるのかもわからないし
下手したら誰かを傷つけるかもしれない。気づかなかった事がいくつもあった
のと同じように、また何かを見過ごしているかもしれない。

でも、だからって思考することを止めてはならないと思うし、忘れてはいけないと思う。
私なりの考えと答えで支援は続けていく。自分が見た事実と、私なりに出した答えを信じて。
ボランティアを支援してくれる市や町の人に感謝を忘れずに。
たぶん、これらの記事はそんな自分の意思をまとめるためと、
忘れないための備忘録なのかもしれない。

とりあえず来週末、これまでよりもっとしっかり考えて活動してきたいと思います。


地酒
写真ブログなのに写真がないのはアレなので、以前iPhoneで撮った写真を載せていくことに。
こちらは、南相馬のスーパーで購入。1本で380円が義援金になるそうです。
楽天でも通販しているみたいなので、興味がある方はこちらへ。

地サゲ2
猪苗代湖ズ・純米吟醸酒720ml(期間限定品)


実は私、焼酎と日本酒飲めないんですけどね^^;
こちらはおうちへのお土産にしました☆

福島県・南相馬へ4 ■夜空に咲く、138の花

2011年08月30日 04:29

※時系列が無茶苦茶なのですが、このお話は早く書きとめておきたいので
先に書きます。先週末、3度目の南相馬へ行った時のお話。



南相馬市原町区萱浜(かいはま)。
ここは3月11日、津波で大きな被害に遭った場所です。
その萱浜で8月27日、鎮魂の花火が打ち上げられました。

死者・行方不明者数と同じ138数の発がメイン。
この花火を打ち上げるために、早くから南相馬でボランティアをしている方が
以下のブログで花火資金の提供を呼びかけました。


http://warriors311.blogspot.com/2011/08/blog-post.html
↑以下の私の記事は読まなくても、この記事はぜひ、読んでいただきたいです。


このブログを知る一週間前、私はある写真展へ行きました。
この記事にも書いた「Signー写真家たちの311ー」です。
その時の感想記事に、私はこう記しています。



これは私の勝手な印象ですが、渋谷さんの写真には、
迷いという名の優しさと、向き合うという名の愛が詰まっているような気がします。
それは、きっと写真を撮られる側にも見る側に伝わっていると私は思います。
その証拠に、渋谷さんが撮影された被災地の方々の表情は
どんな悲惨な一面の瓦礫写真よりも、何よりも
今回の震災を忘れてはいけない、日本を大事にしたい。
そういう気持ちにさせるような表情だったからです。




この時に書いた「被災地の方々の表情」それこそが実は
上記ブログに書かれている、上野さん達消防団の方々のお顔だったのです。
しかもさらに半月前の7月下旬。
私はそれと知らずに上野さんのお家の前を通り、
消防団の方々のお話を、お焼香に行かれた友人から耳にしていました。
その内容は、今から考えれば渋谷さんが話してくださった内容と同じでした。

でも、これらの偶然は、上記ブログ内容を友人に紹介してもらった時に
初めて一致したものです。

とても不思議な縁を感じました。
それと同時に、渋谷さんが撮った消防団の方々の表情がずっと
頭に浮かび続けていました。
「138発の花火を打ち上げるのに、私も協力したい」
「あの写真の方々が喜ぶ顔を見たい」心からそう思い、
ブログを教えてくれた友人と共に、企画者さんに資金提供を申し出ました。


*****************************************



8月27日(土)、鎮魂の花火当日。

私のワガママを聞いてくれた、
地元福島のボランティア仲間が、花火の企画者さんを紹介してくれました。
そして、当日の花火会場のお手伝いもさせていただけることになったのです。


会場である上野さんのお宅についてから、まずお焼香をさせていただきました。
お焼香を終え、顔をあげるとそこには、「Sign」で見た渋谷さんが撮った写真が飾られていました。
そしてそのすぐ近くでは、その写真に写っている消防団の方々が
明るい笑顔で、元気な声を出しながら花火の準備にとりかかっていました。
とっても心が熱くなったのを覚えています。


それから生え放題の雑草や、まだ屋根瓦やガラスが大量に残る会場を
集まった方々とキレイに掃除した後、
炊き出しブースと共に、設営された露店でポップコーンづくりを行いました。

この日は、あくまで鎮魂の意を込めた花火であり
お祭りではありません。
なので、やってくるみなさんは、基本、津波の被害に遭われた、
まさに会場近くに住まわれていた方々だけです。
その他、関係者外の不特定多数の人にはこの花火は告知されておりませんでした。
静かに津波被害者の方々を想うためです。


夕暮れ時、少しずつ集まってくる地元の方々が
3.11あの日まで、そこにあったはずのお家を静かに眺めているのに胸が痛みました。


そんな中、18時40分頃、死者・行方不明者のお名前が
一人一人ゆっくりと読み上げられました。
なるべく、心に刻むように反芻しながら聞きました。
そしてその後、1分間の黙祷。
すべての灯りを消し、19時になったその時、
花火が打ち上げられる音がすぐそこの浜から聞こえました。



その瞬間、真っ暗な空に広がる明るく美しい大輪の花。
想像以上にそれは大きく、美しいものでした。

その後も、丁寧に花火は打ちあがり続けました。
花火大会の花火は、まとめて何発も連続で上がるものが多いですが
鎮魂の花火は、まるで死者の魂を愛おしむように
一発一発が静かにゆっくりと打ち上げられていきました。
大きい花火が大人で、小さい花火は子供だったのかは定かではありませんが、
それらが、津波の被害にあった方々一人一人だと思うと、
自然と涙が出ました。

周りを見回すと、遺族の方々が涙を流しながら
花火をただひたすら見上げていました。


これまで見たどんな花火より、美しく儚く感じました。
花火は、その派手さや大きさを問われることが多いですが
この時初めて、それだけではないのだと気づきました。
打ち上げる人々の想い、そしてそれを見る人々の気持ち。
それによって、花火はそれぞれの心に様々な形や美しさで咲き、
永遠に残り続けるんだなと。
「鎮魂の花火」その本当の意味を感じた瞬間でした。
これは、言葉ではうまく言い表せない感覚です。


花火が終わり、あたりが真っ暗になると
いつの間にか、基礎だけが残る家々に1つずつ
色とりどりのランプの光りが灯っていました。
1つ1つの家・家族を大切に思う心が伝わってくる光景でした。


私は一生、あの花火の美しさと3.11のことを
忘れてはならないし、絶対に忘れないと思います。


*****************************************


花火が終わった後、ビールとポップコーンを配っていると
遺族の方々がそれらをもらいにやってきました。
目が真っ赤でしたし、少し無理をしているようにも見えましたが、
すでに笑顔に戻り、冗談を交えつつも
何人もの人が何度も「ありがとう」と言ってくださいました。

自分がとっても辛く悲しい時に、他人を気遣える、ありがとうと言える。
それはとても力がいるし、すごいこと。そして、
被災者の方々が、懸命に上を向いて歩いている証。
前回こんな記事を書きましたが、津波と原発という複数の苦難の中でも
とっくに自立し歩いている方々はたくさんいます。
それをきちんと心に刻まなければならないし
他の人にも知って欲しいと思い、今回この記事を書きました。


そして、私はそんな人々の力に少しでもなりたい。
強く、優しい人びとのそばにいたいから。

毎回思います。感謝したいのは私の方だなと。
初めてボランティアに来た時から感じていた。
私たちは何かを一方的にしてあげてる立場では絶対にないなと。


私にきっかけをくれたあの一枚の写真、南相馬まで連れて来てくれた友人
カンパに手をあげてくれた友人、地元ボランティアの方々、
今回の企画者さん、被災者の方々。
みんな、つながっている。

少しでもいいから、これから支援という形で
優しさとありがとうを返し続けたいです。



※その時一緒に活動したtanさんもこの日のことを
書かれています。ぜひ読んでみてください。→ 138発の花火

南相馬グッズ
2回目の南相馬の時に、お祭りで買った缶バッチとシール。
「ARIGATO」を合言葉に、地元の方々も日々、動いています。
南相馬の町中では、いたるところに自衛隊やボランティアに対する
「ありがとう」の横断幕が飾られています。南相馬の方々の温かい心がうかがえます。


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